「いつも“ちゃんとしている私”でいなきゃ。」
そう思い込んでいた時期が、確かにあった。
家でも職場でも、誰からも信頼されるように。
どんな場面でも期待を裏切らないように。
いい妻、いい母、立派な社会人であることが「自分らしさ」だと思い、
常に完璧を目指して走り続けていた。
「ちゃんとしなきゃ」と思っていた頃
幼少期、私は長女でいわゆる優等生気質だった。
「しっかりしてるね」「きちんとしてるね」と言われるたびに、
認められた気がして嬉しかった。
だからこそ、いつの間にか“そうでなければ愛されない”
と信じ込んでしまったのかもしれない。
仕事では、ミスをしないこと。
家庭では、家事も育児も完璧にこなすこと。
どんなときも感じよく笑顔でいること。
周りの期待に応えようとすればするほど、心はどんどん疲れていった。
週末になると、散らかった部屋を見てため息をつく。
来客前だけ慌てて片づけて、
「キレイなお家だね」と褒められてほっとする。
でも翌日にはまた元通り。
そんな繰り返しだった。
いつの間にか私は、
“自分のため”ではなく“誰かに見せるため”に生きていたのだと思う。
“見せる自分”から“感じる自分”へ
SNSを開けば、
誰かの整った部屋や理想のキャリア、輝く日常が流れてくる。
「私ももっと頑張らなきゃ」
「どうして私はこんなにできないんだろう」
そんなふうに、気づけば自分を責めるためにスマホを眺めていた。
そんな私を変えてくれたのが、
オンラインコミュニティで始めた“朝活”だった。
まだ家族が寝ている早朝。
白湯を飲み、静かなリビングでノートを開く。
昨日の気持ちを書き出してみると、
そこにあったのは「疲れた」「しんどい」「休みたい」という素直な本音だった。
私は、自分の声を聞いていなかったのだ。
理想の一日、好きなこと・嫌いなこと、
今の働き方のメリットとデメリット、
憧れている人、感謝していること、やってみたいこと──。
思いつくままに書き出していくうちに、
心の奥にずっと眠っていた“本当の望み”が顔を出した。
幸せなはずなのに満たされない理由は、
“他人の正解”で自分を測っていたからだった。
通勤時間に心理学を学び、
心の仕組みを少しずつ理解していった。
地道に自分と向き合ううちに、
怖かった“自分で決める”ということにも少しずつ慣れていった。
「正解を探す」から、「自分を感じる」へ。
そんな静かな転換が、私の生き方を変えていった。
比べない暮らしを選んだら、心が軽くなった
ある朝、SNSを閉じて、リビング・ダイニングをゆっくり見渡した。
散らかったテーブルや途中の洗濯物も、今の私の暮らしそのものだった。
片付けられないのは、私が怠け者だからじゃない。
外で長時間働き、小さな子どもを育てているから、時間がないだけのこと。
「何一つ完璧じゃない。でも、それでいい。」
そう思えた瞬間、体の力がふっと抜けて、温かい涙がこぼれた。
家はモデルルームみたいに整っていなくてもいい。
食事は手作りできる日もあれば、冷凍食品の日があってもいい。
大切なのは、そこに穏やかな空気が流れているかどうか。
“整える”という言葉には、
完璧に揃えるよりも「自分の心にフィットさせる」という意味がある。
私は発酵食を仕込んだり、ノートを開いて心を書き出したりする時間の中で、
少しずつ自分の“ちょうどいい”を取り戻していった。
焦らなくていい。整わなくてもいい。
今ここにいる自分を、丸ごと受け入れる。
それが、私にとっての“整える暮らし”になった。
私にとっての「自分らしさ」
あの頃の私は、
「ちゃんとしていなければ、自分には価値がない」と思っていた。
でも今は、
「ちゃんとしなくても、ちゃんと生きていける」
「大切な人は変わらずそばにいてくれる」
と知っている。
自分を責めずに、他人のせいにもせず、
自分サイズでゆるやかに整えること。
それが、私にとっての「自分らしさ」だった。
丁寧に暮らしたいけど、できる日とできない日があっていい。
そんな“余白のある暮らし”が、今の私には心地いい。
白湯を飲んで深呼吸する朝。
ノートに言葉を綴る静かな時間。
発酵食の香りに包まれる台所。
そんな小さな瞬間にこそ、
生きる実感と幸せが宿っている。
結び|“整える時間”が、人生を取り戻す時間になる
「自分らしさ」って、
誰かに見せるものではなく、感じるものだとつくつぐ思う。
焦らなくていい。比べなくていい。
自分のリズムで、ゆるやかに整えていけばいい。
自分を整える時間は、
誰かの期待を手放して、自分の人生を取り戻す時間。
その静けさの中に、本当の“私”が息をしている。
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